昔、海外の友達二人の口論にいあわせたことがある。二人はビルのエントランス付近で立ったまま激論になった。些細なことがきっかけであったのだが、お互い譲らず、溝は広がるばかり、話はまとまりそうにない様子だった。言葉が英語でも日本語でもなかったため、私には内容はさっぱりであったが、見たこともないほどに二人が感情的になっていることはわかった。
その時。別の友人が何かを切り出した。そして三人は近くのカフェへ移動を始めた。聞いてみると「座って話そう。」ということになったそうだ。
じっくり落ち着いて話そう、ということか。これはセオリー的な流れだ。座って話せば客観的になれる。座って話すことで、お互い話を聞く耳をもてるようになるし、議論もじっくりできる。一方、立ったままの議論は総じて宙に浮きやすい。
一般的に、議論などの双方向コミュニケーションは“座って”、報告や指示などの一方通行のコミュニケーションは“立って”、というのがセオリーだ。それゆえ、プロジェクトでは、あえて立ったままのミーティングを行うことで、短時間で効率的な情報共有を進めることもある。また、プロジェクトの進捗報告や、朝のショートミーティング、災害時など危機管理の現場で指示を出す緊急的場面などに有効的に活用される。
つまり、それぐらい、立って話すか座って話すかというのは、コミュニケーションに与える影響が大きい。だから、この場面で仲裁にわって出た友人のねらいはよくわかった。
ともかく。友好的に話がまとまるまで、もう少しだけ時間がかかることは私にはわかった。というか、そう思い込んだ。
ところが、意外なことにこの話し合いは、テーブルに二人が座ると、いともあっけなく決着してしまう。実際は、私が時間をつぶすため15分ほどその場をはなれて帰ってきたため、逆に友人が「君はどこで遊んでたんだ!」としびれをきらして待っている状況となった。
実は、この口論をしていた友人たちは中華圏の出身なのだが、どうやら彼らの中では、テーブルというのははただ単に結論を確認するための場にすぎなかったらしい。テーブルって、話し合いの場じゃないんかい?!と怪訝そうな私に、友人は「立ったままで言うべき事をとことん言い合って議論した後に、テーブル上で話し合うことなどないよ。」と、早々にさっぱり顔に戻っていた。――どうやら、世の中は教科書にはない「ルール」で満ち溢れているようだ。
この一事件(少なくとも私には。)をふまえて、中華圏のコミュニケーションは・・とまとめるつもりは毛頭ない。むしろ、どなたかこのコミュニケーションの場面を歴史的観点であれ何であれ、解説してくださる方がいれば甚だ嬉しい。ちなみに後日、その口論をしていた友人の一人は私にも<テーブル・コミュニケーション>を仕掛けてきて、日本人の私にはややこしかった。
文責:高橋