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グローバルのヒント

グローバル・コネクター

2022年12月22日

第71回「任せたら自由にさせる」竹内新さん

さまざまな分野で活躍する方にお話をうかがうインタビュー「グローバル・コネクター®」。今回のゲストはプラズマ処理装置やマイクロ波機器などを製造し、2022年に創立75周年を迎えた企業「ニッシン」で代表取締役を務める竹内新さんです。

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木暮 おじいさまが創業された会社だそうですね

 

竹内 生まれた時から「3代目」と呼ばれ、ある程度のストーリーが決められていました。大学進学のため上京しましたが、卒業後は家業を継ぐと分かっていましたから同級生が真面目に就職活動しているのを横目に遊んでいました。

 

木暮 反発は?

 

竹内 特にストレスを感じなかったのが正直なところです。父からすると「作戦どおり」なのでしょう。3代目にするのは既定路線だったようです。就職してしばらくして東京にある技術商社へ出向し、半年ほどで米国支店へ行くことになりました。そこで商社の手伝いや技術試験に携わりながら、3年半ほどカリフォルニア州で過ごしました。

 

木暮 お父さまの計らいで修業に出たわけですね。

 

竹内 大学進学の際も地元の学校に合格していましたが、父から「1人暮らしをしてこい」と言われ、東京へ追い出されていました。今回も自分が果たせなかった米国留学を経験させたかったんだと思います。

 

木暮 渡米当時の英語力は?

 

竹内 高校生レベルでした。ただ、西海岸では英語を母国語にしている人が多くないから大丈夫だったんです。米国の東海岸へ留学した弟は英語で苦労したようです。

 

木暮 敷いたレールだった面はあるにせよ、結果的には良かった。

 

竹内 そうですね。活気のあった当時のシリコンバレーで生活できたのもタイミングとしては良かった。知り合いが突如として億万長者になったりしましたから。一方で、現地で仕事をすると「しんどいと感じる日本人もいるだろうな」とも思いました。

 

木暮 どういった部分が難しいのでしょうか。

 

竹内 米国は合理的で良くも悪くも「行間」が無いんです。例えば自宅に届いた荷物が開封できないほど隙間なく梱包されていたり、アイスコーヒーを売りにしているお店に入って「アイスコーヒーありますか」と聞いたら「ございます。それでご注文は?」と続けられたりする。確かにアイスコーヒーの有無しか聞いていない訳ですから回答としては正しいのかもしれないのですが、そうしたところに違和感を覚えましたね。それは言い換えると、ビジネスをするには非常に明確。物事の決定もスピーディーでぶれない。行間が無いのはプラスでもあるんです。この世界にいるから米国は強いんだなと感じました。

 

木暮 同感です。プロジェクトに参画して海外ベンダーと日本側との間を取り持つ際は、要求をしっかりと詰める作業が必ずあります。契約書も細かく条項が明記されていて、もめない。

 

竹内 速さもある。何でも期限を決めてくる。「じゃあまたね」「待って。いつ?」といった感じです。

 

木暮 行間のない世界で3年半、ビジネスをたたき込まれた。

 

竹内 目の前でそういう姿が繰り広げられます。玉石混淆のベンチャー企業の見極めから輸出入管理までいろいろとやらせてもらいました。

 

木暮 米国駐在時代には、ご自身にとって大きな出会いもあったそうですね。

 

竹内 技術商社のコンサルティングをされている方と会うことになりました。この方がなかなか個性的で関西弁でいう「えぐい」(強烈な)人。日本人なのですが、人と全く違う考え方の持ち主で血中の「米国人濃度」が高い。留学経験のない父もそうでした。周りにいるのはなぜか変な人ばっかり。

 

木暮 その技術コンサルの方からはどんな影響を?

 

竹内 日本で父と意気投合したらしく、子守りのような感じで指南役を引き受けたようです。知らないところで話が進んでいて。しょっちゅう米国にやってきてアパートに同居する「おやじ米国版」になっていたんです。ただ、その方の仕事に同行してプレゼンを考えたり、いろいろとノウハウを見せてもらえた。修行中は何度もつかみ合いのけんかになりかけました。腹立たしいじゃないですか。アパートに押しかけてきて朝から勝手にコーヒーまで入れているし。

 

木暮 楽しいですよね。

 

竹内 当時はそんな心境でしたが、思い返してみると、生まれた時からストレスなく創業家の3代目として生きてきましたから、何も考えていない状態だったんです。米国に行けと言われたら行く。そんなところを根っこからたたき直された感じです。自分で言うのも何ですが、学校では勉強が出来るし、それなりに頭が良かった。だから何でもすんなり切り抜けられ、何も考えずにいられた。逆に「じゃあどうする?」と言われた時に何もなかったんです。

 

木暮 大きな気づきですね。

 

竹内 それまで当社は主に大手電機メーカーの下請けをやっていましたから、仕様書から値段まで全て決まっている。そういう意味で「決めなくていい」ビジネス。父は家業を下請けビジネスから脱却させ、自社ブランドとして生き残るために息子を米国に行かせて思想を学ばせようと思っていた。そこに偶然、うってつけの教育係が現れたわけです。30歳前後で海外で刺激をたくさん受けられたのはすごくありがたいことでした。

 

社内からの冷ややかなまなざし

木暮 日本に戻ってきてからはどうでしたか。

 

竹内 もう「自分は無敵だ」と思いましたよ。テクニックとして米国のやり方は身につけた。これを日本でやれば最強じゃないかと。1対1なら勝てるんですけど、相手は100倍ぐらいいる。

 

木暮 相手?

 

竹内 社員です。米国の話をしても、このノリは私だけ。社員は100人以上ですからすでに数で圧倒されています。社内は「3代目が戻ってきたぞ」という感じで、腫れものに触るような扱いをする人もいました。海外で性根をたたき直され、米国かぶれで高飛車な「ぼんぼん」(坊や)とも違いますから、社内で「納期を決める」「主体性をもって仕事に取り組む」ということを実践し始めました。アメリカナイズされた手法には当初、違和感があったかもしれませんが、ビジネスをする上では正しい方向性だったので、社会的な反応が良くなったり仕事がはかどったりして、この手法が徐々に理解されてきました。父のビジネス思想とも合致していたようです。

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木暮 プラズマの技術も持ち帰ってきた。

 

竹内 技術部員でしたので、設計したり実験をしたりして、この技術を日本の市場に出そうとしていました。一方で社内は「3代目が勝手なことをやってるよ」と冷ややかでした。専用装置の照会が初めて来た時は誰も見積書の承認印を押してくれません。仕方がないから勝手に相手先まで出向いて話を進めることもありました。それから3年ほどでようやく装置の初号機が売れました。大手企業からも引き合いが来たのは事業に取り組んで5年後です。ハンコを押されてていない見積書に次第に注文が届くようになりました。やっぱりお金が見えると社内から認められるんですよ。

 

木暮 分かりやすいですね。

 

竹内 会社が変わるにはタイミングがあるのかもしれません。プラズマの表面処理装置というビジネスは、ある意味で「3代目の道楽」として会社が目をつぶってくれないといけない部分がある。「採算は?」と聞かれたら答えられない。上手くいっていなかったらと思うとゾッとします。

 

木暮 若手エンジニアの立場だと役員の承認が下りないですよね。

 

竹内 次のビジネスもいま、技術コンサルの方と一緒に仕込んでいるんです。若い女性エンジニアをメーンのプレイヤーに据え、自分で動きやすいように社内の目から離して神奈川に移しました。関西から環境が変わるわけですからケアも大事です。何かを新しいものを生み出すのに足かせになったり、ブレーキになったりする要素はあります。なるべく作業者をフリーな状態にしておくと良いと思います。

 

木暮 社長肝いりのミッションを任され、モチベーションが高いんじゃないですか。

 

竹内 そう感じてくれているとありがたいですね。技術コンサルの方とも話しているのですが、新事業が芽を出すには10年は必要だと考えています。

 

木暮 覚悟がいります。

 

竹内 そうですね。米国駐在時代に動かし始めたプラズマ事業がうまくいったので、2匹目のドジョウがいるかもしれない。

 

木暮 今後の展望を聞かせてください。

 

竹内 プラズマ事業は構想から20年以上が経ちました。次の20年につながる新ビジネスができれば、そろそろお役御免でもいいかなと思います。75歳の時に会社は創業100年になりますしね。

 

木暮 同じことをやり続けるのではなく、新しい技術や次の仕事を人に託す。突破口を開いていくのは重要ですね。

 

竹内 いつか技術は廃れます。下手をしたら数年で使えなくなるかもしれない。そのために走り続けたいですね。(おわり)

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